院長紹介

つかさ鍼灸治療院の院長をしております、高橋 正司(たかはし まさじ)です。

院長 高橋 正司(たかはし まさじ)

昭和48年(1973年)生まれ

資格/はり・きゅう師 

   TCカラー認定セラピスト

   数秘&カラー認定プレゼンター

所属/(一社)日本超音波鍼灸協会 事務局長

   (一社)日本整形内科学研究会

 

自己紹介を兼ねて、私がこの業界の入り、鍼灸の道に進んだ経緯をお話しさせて頂きます。

17歳の時、バイク事故に合い血尿が止まらず、体中を検査しました。

その時に事故とは関係なく腎臓に異常があることが見つかりました。

先天性の異常なため、治療法が無く身体を大事にしながら生活していかなければならないと言う事が判明した。

しかし、17・18歳の頃は何を言われても聞く耳を持たず、それからもバイクに乗っていました。

50㏄のバイクの草レースも出たりしていました。

最初の就職先、職業はホンダの二輪販売店で整備士として働いていました。

94年に結婚し子供が生まれ、自分の身体の事を気にするようになり、若さだけでは堂にもならない、身体の事をもっと知らなければと.....よく考えるようになった。

それと同時に「二輪業界の給料では家族を養うのはとても大変だ」また、自分の体には欠陥があり(腎臓が片方全く機能していない)

担当医からもバイクに乗ってはダメとまで言われていたので、父が業としていた治療家の道に転向しました。

(個人的な考えとしては、一度就職したなら定年まで勤めあげたいという気持ち・考えが強かったのですが)

現実は厳しく、転職を決意しました。

父の治療院に勤めながら1年間研修を受け、整体師(療術師)として更に1年働きました。

 

その後、父の1番弟子の方の紹介で健康センター内のマッサージ室で仕事をするようになりました。ここでは完全歩合制で施術した分だけ報酬を頂ける所でした。

5月のゴールデンウィークから働き始めたので指が悲鳴を上げていました。両母指の第2関節が内出血で真っ赤になり痛みに耐えながら施術をしていた。最後は感覚がマヒして痛みも何も感じなくなっていました。

それでも初めての報酬は良かった金額を頂けたのを覚えています。

最終的には8年間ここで仕事をさせて頂きました。

安定が続き、変化のない日常が続いていると新しい事に興味が湧いていてくるようになって来た、それが鍼灸でした。アルバイトで鍼灸師の方が来ていて、その人から鍼灸治療の話、治療の幅の広がりを聞いているうちに大変興味が湧き、八潮市から1番近い鍼灸学校を調べました。

それが吉川市にある旧埼玉東洋医療専門学校(今は無くなってしまいました(^▽^;)です。

すぐに高校卒業証明書を取り、受験をし翌年には入学してました。専門学校の入学も試験を受けて受かったから入るからと妻には告げただけでした。

家族には、大変迷惑と苦労を掛けてしましました。

高校を卒業してから約10年。今更学生をするとは思いもしませんでした。

始めは緊張と不安で血圧が上がりまくりでした。

学校は朝の9時から14時30分まで、その後16時から24時まで仕事をした。1年生の授業内容は今まで講習会などで勉強した内容に近い基礎・入門だったので意外とこなすことが出来ました。

なんだかんだと3年生です。3年になると何となく緊張感が出てきます。国家試験の時期が迫って来るからです。

2年生までは成績も(自分で言うのもなんですが)上位と言っていい位の位置にいましたが、3年になりテストを重ねるごとに順位が下がって行きました。成績が落ちたという事では無く若い子たちが本気で勉強を始めたため、抜かれていったという方が正しいでしょう。

この頃はテストの時期になると夜1時に寝て、朝4時に起きて勉強しそのまま学校に行ってテストを受けていた。朝の方が静かでよく集中出来た。

2年半位はこんな状態で学生生活と仕事を両立してきました。

年が明け、国家試験まで約3か月。仕事を辞めさせてもらい試験に向けて猛勉強開始です。

毎日学校終了後図書館に行き勉強して試験に臨みました。それでも自己採点としてはギリギリのところにいる感じでした。 1か月後何とか鍼と灸それぞれ合格できました。

卒業後は整骨院に6年勤務。平成24年4月に自宅にてつかさ鍼灸治療院を開業。

令和1年7月に八潮市緑町に移転

令和4年6月に八潮市西袋に移転

現在に至ります。

トリガーポイント鍼療法及びエコーガイド下刺鍼®を用いて痛みやシビレに苦しんでいる多くの方達の苦痛を取り除き、小さな幸せを感じて頂く為に全力で施術させて頂きます。

 

つかさ鍼灸治療院  高橋正司